俺は、ただただ優しいその傷みに支配されるだけ
あれは冬間近の秋のこと。
ふわり、と柔らかく頬を撫でた夜の風は心を宥めた。
「へーき?」
夜がそのまま音になった様な声に視線を向ける。
「窓、閉めてよ寒い」
クスリ、と1つ笑って“その事じゃなくて”と零した。
細く長いその指は耳朶に触れていて身震いが起きる。
「もう慣れたよ」
「そう」
そう言った時の微笑は未だに忘れられていない。
“いくよ?”と言った喉が震えていたように思えたが、あれは気のせいだったのだろうか。
胸が締め付けられたような気がした。
パチ ンッ
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彼が死んだ。
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Pierced earrings
:プロローグ
まだほんの少し薄暗い部屋の中そっと起き上がってみた。
朝方のひんやりした空気が布団を冷やした。
ベッドヘッドの上に置いてある携帯電話を掴み取ってサイドボタンを押してみると丁度5時半を示している。
小さくため息を溢してからベッドを降り、ゆっくりと窓際まで歩いてカーテンを引く。
昨夜の少し強い風のせいだろうか日本の国花の花びらが道の端に固まっている。
大きく鳥の声が聞こえているが、残念なことに最近乱視気味になっている眼球では鳥の姿は捉えられない様だ。
また小さなため息を溢してクローゼットまで行き、開ける。
適当に選んだ服をベッドに放り投げてクローゼットを閉めた。
不図眼に止まったカレンダーを見やると今日4月7日の余白に11回忌と書かれていた。
「・・・・そうか、今日だった」
不自然に早起きなのはこの所為だったのだろうか。
忘れられない。
忘れてはいけない。だた、直前まで思い出したくないから。
11年前のあの日小学校の入学式後、両親と手を繋いで帰っている途中突然トラックが突っ込んできた。何が起きたのかわからなかった。
気がついた時には大破したトラックと身体がひしゃげている父、手足があらぬ方向に曲がっている母の姿が目に入った。全てが血の色に染まり真っ赤だった。
「・・・・・」
あの光景は今も脳の大半を占めている。
硬く握り締めた手が悲鳴を上げた事に気付いて手のひらを眺めた。爪が食い込んで微かに内出血が覗えた。
カレンダーから離れ机のペン立てにあったマジックを取り今日の日付にバツ印を雑に書いた。
マジックを投げ捨て、服を着替える。
机の上のガラスで出来ているジュエリーケースを開け、中に入っているピアスを取り出しつけていく。右の一番上のピアスホールはいつも通すとき少し傷む。
開けて、3年も経つのに。
最後にリングを嵌めて、ケータイと財布をポケットに突っ込み部屋を出た。
11年前に引き取られた親戚のところを出て3年になる。親戚が家を出るなら、と無理矢理決めた小奇麗なこのマンションは結構気に入っている。セキュリティーは整っているし。
エレベーターで1階まで降りて気がついた。
「今日、ゴミの日だった・・・」
まぁいいか、とかき消す。と、言うよりは直ぐに忘れるのだけれど。
両親の事故があってから何事にも執着心や関心がなくなってしまった。
あの日で人生は終わっているから。
「おはようごさいます」
柔らかいハスキーヴォイスが投げかけられた。
声がした方を見やると崩れたスーツに甘くキツイ香水の匂いを纏った男が立っていた。
「・・・オハヨウゴサイマス」
桂木 紳。4階に住むホスト。挨拶程度でそんなに付き合いはない。
「今日はお早いんですね」
「そちらは仕事帰りですか」
「はい、今日は定時で帰れました」
「そうですか、それじゃ」
そそくさにその場を去ろうとした時ほんの少し強引に腕を引かれた。
「・・・っ、何か?」
引き寄せられた所為で強く香る女物の香水が鼻を刺す。こんなに匂いが移るなんて。
「いえ、何でも」
笑っているのに笑っていない表情でそう言いながら手を離した。
掴まれた腕を擦り軽く睨み付けた。
「すみません条件反射なんです、いや職業病ですかね」
「・・・そうですか、じゃ俺行く所あるんでこれで」
「はい。引き止めてしまって申し訳ありませんでした、いってらっしゃい」
軽く手を振って見送る桂木の姿を顧みず足早にその場を離れた。
悪い人物ではないのだろうケド、受け入れがたい。
普段こんな時間に外を出歩かないからだろうかなんだか新鮮な感じがする。
意外と人通りも在る。
まだ街灯がついているが辺りはもう明るい。
新聞配達のおじさんが通りすがりに挨拶を投げかける。少し怯んだが軽くお辞儀を返した。
本当は行くあてなど無い。両親の墓参りは中学を卒業してから行っていない。
本来ならこの日すら忘れたいと思っている。
けれど、親戚の家ではこの日は必ず家族全員が会社、学校を休み墓参りに出かけていた。
その癖が身体に染み付いていて必要ないカレンダーを毎年買い、印をつけていた。
これはきっとココロが死んだことを知った上で親戚が刷り込んだ、戒めだ。
「“忘れさせてやらない”てか」
今日はやけに早起きな自分。
部屋の時計を見てみるとまだ5時半だった。
ベッドから起き上がり頭をかく。普段はこんな早くに眼がさえるなんて事は決してないのに、寧ろ起こされても起きないのにだ。
「そう言えば、今日入学式か」
そう、俺は今日で高校生。
学力なんて人並みだから一番近くの学校を選んだ。特に執着がなかったからだろうか、卒業式は寂しい思いなんてしてない。仲が良かった友達なんかは全員別の学校に行ったし初めての彼女なんかも頭が良いもんだから留学してしまったし。
言ってしまえば、全て過去に棄ててきた感じだ。
「・・・しょっ、とりあえず着替えるか」
立ち上がり壁にかかっている高校の制服を横目に箪笥からラフなデザインの服を取り出す。
外は肌寒くて春とは思えなかった。
朝靄の中濡れる葉を指先でなぞるとまるで刃をつきたてられたような冷たい線の感触が走った。
指先に残る閑がにじみ出た血のように思える。
人気の少ない道は今日から通うことになる通学路とは逆方向。行ったことの無い道を探して歩いていく。このまま全く違う世界にいけたら良いのにと心のそこから願っていた。
不図塀の上に視線を向けると真っ黒の猫が顔を掻いていた。
ゆっくりと開かれるその猫の瞳は吸い込まれそうな翡翠の色をしていた。
「お前、綺麗な目を持ってるんだな」
そう手を差し伸ばしながら言うと“ニー”と1つ鳴いた。
触れたその身体は毛並みがよく薄っすら底光りしていた。
「首輪が無いな、帰る家は在るのか?」
ゴロゴロと気持ち良さそうにのどを鳴らすばかりで答えらしい素振りは無い。当たり前か。
「いいな、お前は」
そう言うと黒猫はスク、と立ち上がり塀の下に降りた。足に擦り寄り2メートルほど先まで歩き、振り返ってまた1つ鳴いた。
「・・・・、ついて来いって事か?」
自然と足が向いた。猫に導かれるなんて、どこかでそんな物語があったような気がする。
角をいくつか左右に曲がったり曲がらなかったりと繰り返していると小高い小さな墓地に辿り着いた。木々に縁取られたそこはある1つの空間のように切り取られていた。
「こんなところに、墓地なんか在ったのか」
数えるほどの石段を上がり猫の行方を捜す。
「お~い、ねこ~?どこ行ったー?」
墓石の間を“失礼”と思いながら覗いていくが底光りするしなやかな身体は一向に見当たらない。この墓地に入ったのは確かなのだけれど。
曲げ続けていた腰が軋み一度伸ばすように反らす。柔らかな風が吹く、不思議な香りが鼻を掠め何とも言えない気分が胸を過ぎった。
辺りを見渡すが人の気配が無い。場所が場所なだけに気持ちがひんやりするが怖いと言うわけでもない、変な感覚だ。
十の墓石を過ぎた頃だろうか
ニーッ
「お? どこだ~?」
右往左往していると少し先で尻尾をパタパタしている姿が見とれた。
「ドコに連れてく気なんだ? あ。」
そう言いながら抱き上げようと手を伸ばすがするり、と交わされ更に先へ進む。結構広い墓地だったんだな。あんなところに階段が。もっと高いところがあるのか。
「登るのか?」
聞くと“ニャー”と鳴いたので覚悟を決めた。階段は嫌いだからね。
近くまで行くと結構な数の石段だ。登りきれるだろうか。
そう決めた覚悟も事実今、十段以上踏みしめたところで容易に崩れ去った。
立ち止まり、振り返って今までの成果を見るとナカナカ気持ちの良いものだった。
自分的には結構頑張っている方だ。ケレド上を見るとまだまだ頂上までは距離がある。
大きな溜め息をつくと先を行く猫が急かす様に鳴く、すると強い風が背後から吹きつけた。
その拍子に二段勢いで登ってしまう。驚いて眼を見開いていると“ぐずぐずするな”と眼で訴えている翡翠の瞳と視線が絡んだ。
承知しましたと重いと思われた一歩を踏みあがると
「・・・なんか、軽くなった?」
先ほどあんなに重くのしかかっていた重力がまるで無いかのように感じられた。
なんだか今朝はおかしな体験をしている。もしかしたらこれは全部夢なのかもしれないな。
軽快な足取りで登っていき、最後の一段を猫と一緒に登る。
1つ息をついて行儀よく座っている猫に微笑む。
もう一度手を伸ばすと今度は容易く抱き上げられた猫。喉をゴロゴロと鳴らし胸に擦り寄る。
「ココに何かあるのか?」
辺りを見渡すと森のように木々が覆い茂っていて景色は全く見えない。
再び腕の中で“ニー”と鳴いた翡翠はおれの頬に擦る。その時聴こえない筈の音を聴いた。
「・・・・・・来る」
呟いた瞬間先ほどの風よりも強い力が吹き付けてきた。
土煙が上がり目を硬く閉じる。
思ったより長い時間吹いていたように感じた。やっと止み、目を開けると抱えていた猫が姿を消していた。
「! どこっ・・・・に」
反射的に振り返るとそこに立っていたのは、一人の少年だった。
まるで、時が止まったように思えた。
その少年の姿はただただ凛としていて空気に波紋を描いていた。
この世のものではないかのような少年の濃紺の瞳と髪は太陽の光りに艶めいていた。
今朝は本当に不可思議なことばかりだ。
俺はスッカリその世界の虜になっている。もう、抜け出せないほどに
そう、それが、俺たちの出会いだった。
猫と風が運んだ
春が終わらない世界での